種村せんせいの日記。。「古い闘病日誌−3」
2017年10月6日 / お知らせ, 種村せんせいの日記。。
朝夕、めっきり涼しくなりましたね。
風邪とか引いてないですか
更年期でホットフラッシュのツライ方は
ちょっと過ごしやすい気温ですが、
季節のかわりめ、寒暖の差で自律神経が不安定になって
かえって調子を崩されてる方も少なくないようです。
私も寝汗です。。。
さてさて、
私はこのクリニックを開業する半年くらい前、
10年前の9月に社交ダンスを始めました
きっかけは、大学病院を退官して少し時間の余裕ができ、
新しい趣味を始めたかったこともありますが、
実は、私の両親が社交ダンスで知り合って結婚した
という経緯があって、
子供の頃から家の座敷で
スロースロー、クイッククイックと手ほどきされた小児体験があったからです。
うちの母は、ばりばりのラテンダンサーでした
一部の方にしか通じないお話でしょうが、
林先生の時代に名古屋市公会堂で踊ってたそうで、
当時のA級ダンサー。結婚を機に辞めてしまったのが後悔みたいです
ずっと興味を持っていたのでいつかは始めようと思ってました
そして、、、
これは最近の写真じゃないですよ〜〜〜
これはちょうど告知を受ける直前に
私が自分のパソコンにスキャナーで取り込んでいたパーティでの写真です。
そして、
この後から次の写真は闘病生活の写真にかわってます
どうしてこの写真を再アップしたのか、というと、
第一に、社交ダンスは私の闘病生活の支えであり
治療中の体力維持、術後のリハビリに欠かせなかったことがあります。
最初に電話で告知をうけた日。
思いかえします。。。
確か、水曜の午後の休憩時間に美容院(ここの美容師さんのこともまた日誌で書いてゆきます)に行き、その帰りにある電話番号の着信履歴を発見しました。
この番号なら記憶にあります。
元職場の大学病院の、どこかの部署の内線からのハズ。
決して産婦人科医局ではない!!
クリニックへ帰り、院長室で折り返し電話をしたら
乳腺外科の主治医の山下先生でした
告知は前回のお話のとおりです。
なんとなくの予感はあっても抗がん剤と言われてうろたえました
(いっぱいお世話になった山下先生のことは、またこれからの日記で書きます)
クリニックにいた当時の婦長にも何も言えず、泣きはらした顔で仕事を終えて帰路につきましたが、
クリニックを出るまでに、急いでまずは仕事関係者に伝えました。
とくに責任ある委員や講師の辞退などの連絡、原稿、講演関連の担当者に電話やメールで連絡しました。
さらに、
そして親しい医療関係の友人知人に電話で泣きついた、、
でも、家族やスタッフにはすぐには言えなくってね〜
悲しむ顔を見たくない
かと言って、帰る気にもならず。。。。
じゃあ、何をしたか
ハイ、ダンス馬鹿ですので、レッスンに行きました
抗がん剤や手術となったら当分踊れませんし、
年末のパーティとかにも出られなくなる。
来週になったら抗がん剤治療が始まっちゃうから、今のうちにレッスン
自宅を通り過ぎて、以前かよっていた梅原教室へ向かいました。
もちろん、まともに踊れたかどうかは記憶にはないのですが、家に帰る前の景気付けにはなりました。
つづく。。。